チャリダー★ライターの「カクシゴト」

東京在住の広報ライターは何を考えているのか?

【私見訥々】その感動は本物か?

その感動は本物か

最近「感動しました」という言葉をよく耳にします。

ラグビーワールドカップに、感動しました。
国産旅客機MRJに、感動しました。
日本人のノーベル賞受賞に、感動しました。

「感動しました」という言葉をニュースで聞くたび、「ほんとに感動してるんかいな?」と疑問に感じます。

そんなふうに思うのは私の心が邪悪だからで、「感動しました」と言っている人は素直な心で言っているのです。それはわかっているんですけどね。

「感動」とは何か?

物事に(特別な意味や価値を感じて)強く心を動かされること。また、その心持ち(出典:明鏡国語辞典)

辞書で感動を引くと、こうあります。

私には、感動しましたと無邪気に言っている人たちが「強く心を動かされ」ているようには見えないのです。なぜなら、その人たちが、それをきっかけに行動を変えるとは思えないから。

何かに強く心を動かされたら、行動って変わるものだと思うのです。逆に言えば、自分に具体的な変化を与えないような物事には、感動したとは言えないんじゃないかと。

その感動は本物か?

ためしに、ちょっと想像してみてください。

満面の笑みでレポーターに答える人たちの映像はそのままに、「感動しました」という言葉を、あなたの脳内で「おもしろい、すごい、うれしい」に置き換えたらどうなりますか?

ラグビーワールドカップは、おもしろかった。
国産旅客機MRJは、すごいと思う。
日本人のノーベル賞受賞は、うれしいですね。

もし違和感がないなら、それは映像に映っている人の様子が「感動」した人のそれではなく、「感想」を述べる人のそれだからです。

感動の「動」は、人が地上を足で突く形「重」に「力」が加わって、足でトンと地を突く動作を表す字。肉体的な字です。

一方、感想の「想」は、「木」を「目」で見て「心」で考える心象的な字です。感想は、

ある物事にふれて心に感じたことや思ったこと。所感(出典:明鏡国語辞典)

です。

感想に置き換えられる感動なんて、感動ではないのです。

肉体から切り離された言葉で、切り離される自分

私が「感動しました」という言葉に疑問を感じるのは、その言葉が肉体から切り離されて、すごい人への単なる感想で終わっているように思えるからです。

あの人はすごい。
自分とはちがう。
自分とは縁遠い。
自分にはまねできない。
だから、自分は動かない。
何もしない。
変わらない。

感動しましたという言葉が、自分は何も変わらないことの言い分けになっている、そんな気がするのです。

え、ナニナニ? えらそーに言ってるお前は、そんなに行動力があるのかって?

大丈夫。私はめったなことじゃ感動しませんから。言ったじゃないですか、「邪悪」だって。

【蛇足】
これを読んで、不快に感じた方がいたら、ごめんなさい。不快にさせるつもりで書いたわけではないのです。いくら邪悪な私でも、できれば誰も不快にさせたくないし、傷つけたくはありません。

でも私は、100人いたら100人に好かれることばを、私見訥々(しけんとつとつ)で書こうとは思いません。

誰の感情もゆさぶらない希釈・希薄・検閲されたことばではなく、己をドライブするような、内側からあふれ出すことばを綴りたいのです。私見訥々は、100人のうち10人、8人に届けばいい。

とはいえ、毎回毎回こんな暑苦しいことを書いたりはしませんから、もしよければ、これからもお付きあいくださいね。基本は陽気なチャリダー、ときどき本気のライターです。

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