桜の経済的価値なんて知らないけれど
東日本大震災の津波で壊滅的な被害を受けた陸前高田の松原。その中で生き残った一本の松は、たった一本残ったからこそ「奇跡の」一本松と呼ばれたのだろうけれど、あれが松じゃなくて電信柱だったら、「奇跡の」電信柱とは呼ばれなかっただろう。あれは松だから奇跡なのだ。
残念ながら震災から約1年後、松は枯死してしまったが、モニュメントとして保存されることになった。復興どころか復旧のメドもたたない時期に、保存を望む声があがったのはすごいことだ。けれど「もっと他のことにお金を使うべきだ」という批判の声もあった。そうかもしれないと思いつつも、その批判にザラザラとしたものを感じた自分もいた。
ザラザラの正体はわからないまま、5年が過ぎた。
きょう、咲きはじめの桜を目にした。桜と桃の花の区別もあやしい自分だけれど、それでも桜を見ると無条件に「いいなぁ」と思う。
ふと、ザラザラの正体がわかったような気がした。
「松を残して何になる?」
「復興の象徴として……」
「象徴でメシが食えるのか?」
「心の拠り所として……」
「心の拠り所? 住む場所を確保する方が大事だろう」
などという会話があったかどうかはわからないけれど、あのときニュースで見聞きした限りでは、これに近い感覚の(言葉じゃなくて感覚ね)無言の応酬があったように思う。
これでは話にならない。片方は木をモノとして見ているのに対し、もう片方は心として扱っているからだ。木をモノとして捉えば、経済の話になる。心として捉えれば、それは経済的価値とは別の価値の話になる。話の土台がちがっているのだから、話はかみ合わない。
「松を残して何になる?」
――お金にはなりません。
「象徴でメシが食えるのか?」
――象徴でメシは食えません。
「住む場所を確保する方が大事だろう」
――ごもっともです。
松で儲けることはできません。
でも、人には心があるのです。
「心でメシが食えるのか?」というあくまでも経済的な指標に基づく突っ込みを無駄に続けてもいいのだけれど、そうまでして心なんてどうでもいいと思いたいのは、なぜ? そういう人は、飼っていた犬や猫が死んだら、生ゴミとして出すのだろうか? 罪にならなければ、死んだ親でさえも生ゴミとして捨てるのだろうか?
そんなわけ、ないよね。
桜が咲くと、なんだか浮き足だった空気が漂いはじめるこの時期は、経済的価値じゃないものの価値というか、経済では救われないものの存在を感じるのにいい時期かもしれない。
きょうも最後まで読んでくれて、ありがとうございます。
まだ満開にはほど遠い桜を見て、そんなことを感じたのでした。
【この話には続きがあります】
桜の経済的価値なんて知らないけれど~その2~