チャリダー★ライターの「カクシゴト」

東京在住のライターは何を考えているのか?

生きにくいこの社会を生きやすくする方法はあるのか?

「自宅に火をつけて自殺しよう。誰を巻き込もうが関係ない。誰も助けてくれない社会は要らない。世界なんて滅べばいい」

これは、あるDV被害者の女性の声だ。彼女はどんな団体に訴えても、どこの役所に訴えても相手にしてもらえず、本気でこう思ったという。彼女をそこまで追い詰めた社会とはいったい何なのだろう?

f:id:yodakazoo:20160108210054j:plain

勇敢な当事者頼みでいいのか?

少し前のことだけれど、女性の人権に関するセミナーに行ってきた。参加者は女性がほとんどだろうから、行くのは気が引けた。けれど、開催主旨に「解決への道筋」とあったので行ってきた。

女性差別というのは昔から問題にされてきたテーマなのに、こうしたセミナーが今も開かれるということは、解決がされないままずっと続いてきたということだ。だから「解決への道筋」なんて本当にあるのか? あるなら知りたい、と強烈に思ったからだ。

このとき私は、肝心な言葉を読み飛ばしていた。それは、「解決への道筋」の後に続く、「~を一緒に探る」という言葉だ。これは、私がこの問題を他人事としてとらえている証拠かもしれない。

セミナーでは暴力や差別の被害者である女性たちが、自身にふりかかった問題を解決するためにとった試行錯誤を語ってくれた。それぞれに素晴らしい話だったのだけれど、私はどこか物足りなさを覚えた。なぜなら「やっぱり一人ひとりの当事者が努力するしかないのか」という事前の予想を再確認しただけだったからだ。

念のために断っておくけれど、当事者一人ひとりの行動には事態を好転させる力がないという意味ではない。不当な扱いを受けたとき、それを解消するために自ら行動を起こすことは、自らを救うのに有効な手段だ。しかもその行動は、同じように不当な扱いを受けている別の人の参考にもなるから、公で話すのは非常に大切なことだし、たとえ少しずつではあっても社会をよい方向に変えるのに役立つだろう。

ただ、誰もが行動を起こせるわけではないという現実がある。行動を起こすには勇気や体力や資金が必要だったり、行動を起こすことで、さらに不当な扱いを受けるリスクがあったりするからだ。登壇者は実際にその被害に遭っていた。(それをここで具体的に書くと、邪悪な加害者を増やす可能性があるので書かない。)

私は当事者の勇気や努力に頼らずに問題を解決する何か別な解決策が要ると感じている。もっと早く、より大きなインパクトを社会に与える、社会を変える別の解決策が必要だと。

「問い」を変える

私はどこかで期待していた。「当事者の勇気や努力に頼らずに問題を解決する方法」が当事者の口から語られるのではないかと。

そう、認めよう。私は大馬鹿者である。登壇者はすでに行動を起こしている人たちなのだから、社会を一気に変える方法がわかっていれば、その方法を取っていただろう。

なぜ私は馬鹿な考え違いをおかしたのだろうと考えたとき、気がついた。立てた「問い」が間違っていたのだと。

「有効な解決策は何か?」を問うのではなく、「なぜ問題はなくならないのか?」「現状が変わらないことで、得をしているのは誰か?」を問うべきなのではないか。

登壇者に問うという意味ではない。そういう問いを立てて(疑問を持って)社会を見るということだ。過ちを繰り返す社会のシステム・構造の問題点を発見できれば、それを変えることが別の解決策の1つになり得るはずだ。

誰が社会を変えるのか~私が感じた後ろめたさ~

少なくない女性が暴力や差別に直面し、困難な目に長年遭い続けてきたということは、個々の被害者に問題があるのではなく、社会に問題があるということだ。だから社会の問題をあぶり出す問いを立てなければならない。

ただし「社会」というのはどこかにデーンと存在しているものではなく、一人ひとりが構成して成り立っているものだから、構成員である一人ひとりが変わることでしか社会は変わらない。ということは結局、当事者であるか否かに関わらず、一人ひとりの行動に依存せざるを得ないとうことなる。

ああ、これだ。これが、後ろめたさの正体だ。

一人ひとりの行動が社会をつくっているのだから、一人ひとりが行動を変えなければ、社会は変わらない。なのに、私はそこに加わっていない。これが後ろめたさの正体だ。

では、私にできることは何なのか? 考えられる1つが、この文章を書くことだった。書いて、問題の存在を少しでも人に伝えることだった。

「そんな小さなことを」と笑う人がいるかもしれない。「それで何かやったつもりか」と叱る人がいるかもしれない。別に笑われても、叱られてもかまわない。その代わり、あなたも、なにかできることをやってほしい。

冒頭で紹介したDV被害者を追い詰めた社会とは、私であり、あなたなのだから

私のために泣いてくれる人は要らない

DV被害者の女性は、本当に最後の最後だと思って相談した弁護士が、誰も助けようとしない状況に猛烈に怒り、問題解決のために動いてくれたおかげで、自宅に火を放つこともなく、死ぬこともなく済んだという。

「私のために泣いてくれる人は要らない。怒って、一緒に行動してくれる人がほしかった」

彼女が語った言葉が、今も私の耳に残っている。